ワクワク!?歴史秘話 
&ニワトリ茶話

Reported by
小林奈穂子(みつばち社)

ふたりのユニットで活動するみつばち社の1号。みつばち社の専門は
コミュニケーションデザインで、今野製作所のWebサイトも手がけている。

主な登場人(動)物

今野製作所福島工場に隣接する土地には、たくさんのニワトリがいます。烏骨鶏、会津地鶏、秋田比内地鶏、岡崎おうはんという、いずれも名だたるブランド鶏。のびのびと放し飼いにされていて、工場から一歩出ると日常的に目にする存在となっています。草刈り担当のヤギも数頭います。どちらも会社の創業者である会長さんがお世話しています。
同じ敷地内にはインドネシアからの技能実習生が暮らす寮があり、しばしば東京から出張して来る社員のみなさんの宿泊所もあります。朝ごはんは会長さんが作るのだとか。
ヤギさんを「太郎!」「小次郎〜!」などと呼び、嬉々として(笑)飼いならしている会長さんの姿に釘づけになったのは、2年ほど前、取材で初めて福島工場にお邪魔したときのことでした。福島のペーター?……従業員のみなさんにはお馴染みの光景だそうです。
ジャージ姿に笑顔の会長さんの歩んできた道のりは、今野製作所の歩んできた道のりです。昭和の時代にさかのぼり、会長さんからお聞きしたその道のりは、まさに山あり谷あり。私がお聞きできたお話だけでも、ここで語り切れるものでもなく、一部は公開できるものでもない(笑)ので、割愛はやむをえませんが、それでも読み応えのある記録だと思います。(2019年6月)

15歳、集団就職で上京。奉公先を脱走したこともありました。

1937(昭和12)年、福島県相馬郡新地村(現新地町)生まれの会長さん。6人きょうだいの3番目でした。15歳のとき、集団就職で上京します。当時村から高校に進学する人は、ほんの一握りだったそうです。
就職といっても、無給の、丁稚奉公です。最初の奉公先は浅草の鞄屋さん。同級生と二人での住み込みでした。堪え難かったのは食事。ご飯が、パラパラとした外米(輸入米)だったのです。3ヶ月で二人そろって実家に逃げ帰るも、実家で怒られて、その日の夜行でとんぼ返りした好美少年(蛇足ですが「好美(よしみ)少年」です。漢字の並び的に誤解を招くといけません。笑)、縁あって墨田区のメッキ屋さんにたどり着きます。そこのご飯は日本のお米でした♡

好美少年はその後、メッキ屋さんのご主人が紹介してくれた医療器具の製造メーカーに、10年落ち着くことになります。金属加工の仕事です。そこのご飯も日本のお米でした。
ものづくりが性に合っていたらしい好美少年は、仕事の覚えが早く、先輩を追い抜き、24歳で10人ほどの職人を束ねる工場長になっていました。21歳のときには結婚も果たしていましたが、奥さんのご懐妊(浩好現社長!)を機に、独立を決意します。“ブラック”の概念さえない時代、朝から晩まで、月に2日のみの休みで働いても、お給料で妻子を養うのは無理だったからです。26歳のときでした。

働きました。働きました。働きました。

独立、起業といっても、いまのそれとはずいぶんイメージが異なります。北区駒込に借りたアパートで、奥さんと二人、6〜7畳の部屋を仕事場とし、もうひとつの4畳半の部屋が家族の住まいでした。中古の機械を購入し、独立前からの縁で、医療器具問屋さんからの仕事をコツコツと受けました。収入は勤めていたころより増えました。勤め先だったメーカーは円満退社。腕も人も良い好美青年は、お世話になった前の職場に、独立後もしばしば、無給で助っ人として働きに行っていたといいます。あっちでもこっちでも、とにかくひたすら働きました。
独立後しばらくすると、好美青年はその器用さを買われ、大きな会社からも機械の修理を頼まれるようになります。奥さんと二人、夢中で働くうち、だんだんと大きな取り引きも増えてきました。駒込では7年間やりましたが、法律が変わり駐車違反でつかまるようになったため(ご本人談)、転居します。なけなしの資金で、足立区に25坪の土地を購入し、ほったて小屋(ご本人談)を建てたのです。今野製作所はいまもその場所にあります。

ついに、イーグル印の自社製品誕生!

運命の出会いは30代半ばでやってきます。ある重量屋さん(機械設備を、運搬・搬入し、工場に据えつける仕事をする人たち)との出会いでした。彼らが重量機械を持ち上げるときに使われる油圧ジャッキ、それの、いままでにない新型を作れないだろうかと持ちかけられたのです。腕に自信のあった会長さん(もう少年でも青年でもないのでここからは「会長さん」で)は、やってみることにしました。本業のかたわら寝る間を惜しんで試作に明け暮れました。ところがこれが失敗続き。さすがにサジを投げかけましたが、その重量屋さん、会長さんとケンカもしたそうですけど、立派なおひとだったようです。「必ず業界で必要になるから」と会長さんをなだめたもので、会長さんも職人の意地にかけてしぶとくチャレンジ。3年以上の間、試作のために購入した市販品を100台以上スクラップにした末に、完成させました!
開発のため、「儲かっても全部それに突っ込んだ」という新型ジャッキ。現在まで今野製作所を支え続けた、イーグル印(元EAGLEブランド)の油圧爪つきジャッキの誕生です。
当時は唯一無二の画期的な発明品で、その重量屋さんの言う通り、すぐに売れ始めたのでした。1976年、営業マンなどいなかった今野製作所で、着慣れない背広に袖を通した会長さんは、この爪つきジャッキを売り歩きました。
イーグル印の爪つきジャッキはよく売れました。発売して5年で、会長さんは故郷である福島県の新地町に製造工場を建設することを決めます。道路一本を除きなにもない山林を、切り拓いて造成、電気も水道も自力で引いたというので驚きです!地元新聞にも載ったそうですよ。

それから約40年が経ちました。65歳のときに一線を退いて、浩好現社長に席を譲った会長さんはいま、福島工場に隣接する土地にいます。会長さんのお話では、(地域で神童とあだなされていたらしい会長さんのお父さまの)「隔世遺伝でデキがよくて、早稲田の政経受かって行きたいって言うから」しかたなく(?)本当は技術者にさせたかった息子の浩好氏を希望通り進学させたそうです。
大手企業を経て会社を継いだ浩好社長は、苦労知らずの困った二代目で放蕩の限りを……などというありがちなシナリオとは無縁の人物で幸いでした!その浩好社長のもと、今野製作所も福島工場も、リーマンショック、そして東日本大震災をも乗り越えて、元気に稼動を続けています。二代目の時代にも、長い開発期間を経て、着脱式手動運転補助装置・SWORDという画期的な製品を生み出しています。チャレンジ精神は受け継がれているようです。

さて、ここからは、オマケのニワトリ茶話です。

「もともと百姓の子だからね」と、動物も土いじりも好きな会長さん。ニワトリやヤギを飼い、その小屋も手作り。これもお手製のビニールハウスで野菜を育て、小さな竹やぶでは筍を収穫。「東京にいたってやることない。年寄りは田舎がいい!」と、元気ハツラツの日々です。

ひょんなことからもらい受けることになったニワトリを世話するうちに楽しくなったのがはじまり。数を増やしたニワトリの、ひとりでは食べきれなくなったたまごを社員に配りもしましたが、じきに100羽にもなったニワトリは、たまごも増えるばかりです。地域に集うお年寄りに、「お茶うけにゆでたまごでもどうぞ」と提供するうち、そのおいしさが評判となり、購入希望者がひとり、またひとりと出てきました。なんといっても放し飼いのブランド鶏です。それならばと、薬局を営む方に託して販売し、売り上げは購入者の寄り合いのお茶代にでも還元することにしました。すると、会長さんが“たまごの会”と命名した、この購入者グループ、ほとんどの方が農業を営んでいることから、「ニワトリの餌に」「ヤギの餌に」と、頻繁に野菜を届けてくれるようになりました。会長さんのニワトリは、たまごと共に、地域に根ざす小さな循環型経済を生んだのでした。